2017年10月 7日 (土)

第125回JLBC九州・山口親善ボウリング大会

昭和59年より始めたJLBC九州・山口親善ボウリング大会は

回を重ね、125回にもなりました。

30年以上続けられていることになります。

最初から手伝って下さっている、冨岡雪枝プロ

20年以上サポートして下さっている

荒瀬一男プロ・楢崎信二プロ

損得抜きの援助に感謝でいっぱいです。

20年以上会員でいて下さる

加藤栄子さん、杉原恭子さん、田川栄子さん

他、小郡スーパーボウルの方

パークレーン宇部の方々

博多スターレーン

フラワーボウル

防府ゴールデンボール

長いお付き合いを、本当にありがとうございます。

新しい仲間にも感謝です。

これからも和気あいあいとした会に

頑張っていきます。

50年?めざして!!!

なお、大会の写真と成績をアップします。

125a_2 Aクラス

125b Bクラス

125g ゲストクラス

125.pdfをダウンロード

2012年6月19日 (火)

台風の中、東京へ

120619_120147_3
宮崎は暴風雨。

朝一番の飛行機だけ飛ぶらしい。

そこで14時30分に乗る予定を

変更してもらいました。

飛び立ってホッ。

9時30分には東京に着きました。

ホテルのチェックインまで時間があるので

同行の吉田さんと

スカイツリー見物に出かけました。

真下からみるスカイツリーに

首が疲れました。

浅草などにも行きたかったのですが

足のこともあるので、

明日からの「プラチナレディース」のため

ホテルに帰りました。

帰り着くと同時に土砂降りになり

台風がこちらに向かっていることを

感じました。

皆さん、気を付けてください。

2011年8月 7日 (日)

⑭プロになったら・・・。

昭和50年(1975)4月1日

プロライセンスが交付されました。

その頃、NET(今のテレビ朝日)では

レギュラーのボウリング番組があり

新人は必ずそこで紹介される筈でした。

ところが、3月31日でその番組は終了。

全てのボウリング番組がなくなりました。

楽しみにしていただけに

とても残念でした。

最初のトーナメントは、岡山県の倉敷で

チャンピオンシリーズ。

控え室(何故か畳の部屋)では先輩プロから

色々と話を伺ったのですが、

興味津々で怖いという感情は

まったく持ちませんでした。

それ以降も先輩方の話はおもしろく

いつも首を突っ込んでいたくらいです。

ですから、全くいじめられた事はありません。

同期の人より先輩たち

それも、いつもその時に縁が出来た人と

行動していました。

例えば、

出かける前に仕事が一緒だった。

新幹線で一緒になった。

などの他愛ない動機でした。

誰かがいないと、だめと言うわけではなかったですし、

一人でも平気だし・・・。

ある意味変わっていたのかも。

でもお陰様で本当に多くの方々と縁ができました。

先輩方のお陰です。

ですから、今度は私が後輩に返さなくてはいけないのに、

あまり、できてなくて、ダメちゃんです。

2011年8月 5日 (金)

⑬プロテスト筆記試験

プロテストは

プロボウラー資格取得試験と言います。

一次試験は東と西に別れ

1日12ゲームを4日間連続で投げます。

ボウリング場も4箇所違うところです。

初めの2日間で女子は175AVG以上打たないと

(現在は185AVG以上)

3日目に進めません。

4日間合計48ゲームで180AVG以上が

(現在は190AVG)

2次試験に進めます。

2次試験は4日間ですが、

東京で1日

大阪で2日

東京で1日

これも合計48ゲーム180AVG以上必要です。

(現在は190AVG)

実技に合格すると筆記試験があります。

◆一般常識(読み書きの漢字、社会・経済問題、

        簡単な計算もあったような)配分は40点

◆ボウリングに関する問題(点数のつけ方、ルール、用具に関する企画など)

◆ボウリング業界問題(団体の略称など)

ボウリング部門が60点

100点満点で60点以上が合格です。

その後、面接があり

合格が決まります。

7期生は20名

小粒な7期生。

ボウリング教室あがりの7期生。

そう言われたものです。

世の中にボウリングが認知され

ボウリングとは、何ぞや。

それがわかりはじめてから

育ったのが私たち世代だったからです。

23歳になったばかりの私が一番若く、

加藤八千代さん

章道子さん(辞められました)

時本美津子さんの4人と

同級生です。

私にも若い時がありました。

そうそう、20周年の時は

その当時在籍していた全員でお祝いをしたものです。

その国分寺パークレーンも無くなり、

一番の年長だった高橋みゆきさんも亡くなって

残念です。

2011年7月17日 (日)

⑫プロテスト2次試験

どうにか、1次試験に合格し、

2次試験に進めました。

2次試験は東京・大阪・大阪・東京の4日間。

1日目はどこであったのか、忘れてしまいました。

たしか、

朝のラッシュアワー時の話です。

宅急便などありません。

ボールも1個の時代。

バックにキャリーなどつける発想もありませんでした。

当然、バックも荷物も自分で持って移動です。

あまりの混雑に山手線の電車を何台かやり過ごしました。

しかし、隙間なんてありません。

覚悟を決めて乗車。

通勤時間に重くて大きい荷物は皆さんの迷惑以外に

なにものでもありません。

初めは持っていました。

いつの間にか軽くなった。と思ったら

人と人の間で宙に浮いています。

あんな重いものが、

間に挟まって、浮いているのです。

皆さん、無表情でつり革につかまっていましたが、

さぞ、迷惑だったでしょうね。

思い出すたびに申し訳ない気持ちになります。

最終日は後楽園ボウリングセンター。

スージーさんが応援に来てくださいました。

1投1投大事に投げて

ラストゲーム160で合格のところ

180点。

ここでも、少ししかあまりなしでした。

スージーさんが抱きついて喜んでくださったのですが、

なんだか恥ずかしかった記憶があります。

先日、スージーさんをご存知かと、ウェンディさんに伺ったら、

元気にボウリングをしていらっしゃるとのこと。

アメリカのナショナルチームのコーチもされていたそうで、

先年、亡くなられましたが、

JBCの木林さんもスージーさんとお会いしたとかで

「スージーさんが知ってる。と言ってたぞ」と聞いてました。

お会いしてみたいですね。

2011年3月 4日 (金)

⑪プロテスト1次試験の思い出

久々にプロボウラーへの道をお話します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3回目の受験となったプロテストは西日本で受験しました。

(1.2回目は東京で受験)

どの順番だったか覚えていませんが

塚口・香里園・園田・最後が吹田ロイヤルボウルでした。

どのボウリング場もこのテストが終了したら、

閉鎖が決まっている。と言う状況でした。

特に、香里園(近くに松下電器の工場?があった)のボウリング場は

すでに、閉鎖していて

テストの日に私たちのために

その時間だけあけた。そんな事情でした。

ですから、椅子も座ると埃がつきそうな

掃除もできていない、電気も半分で暗い。

レーンは難しい。

明るい材料はまったくありません。

最後の吹田ロイヤルボウルには

昨年亡くなられた平川プロがいらっしゃいました。

その時も、その後も変わらない平川さんでした。

このテストを引き受けなければ、1月で閉める予定だったとか。

電気も半分。

使うレーンだけ明るいと、どこも同じ様でした。

関西の4つのボウリング場を

ボール1個、電車で回った懐かしい思い出です。

ちょっと危なかったのですが、

「ここで、落ちたらまた1年。いやぁ後はない。」

そう、思うと気が引き締まり、

12ピン余ったくらいで、どうにか、2次に進めました。

2011年1月 6日 (木)

⑩プロテスト対策

昭和50年(1975年)1月

これが、テスト開始の時です。

その頃のレーンはウッド(木材)

オイルは揮発性があるオイル

ボールは硬質ゴム(黒)

レーンコンディションはと言えば

はじめはつるつる。

ひと曲がりもしない。

投げているうちにどんどん遅くなり

中に入っても入っても

ピンに届かなくなる。

そんな感じです。

その当時のプロテストは

アベレージ180

今と同じゲーム数で

一次テストは4日間続けて1日12ゲーム

通算48ゲームです

そこで、目標設定をしました。

アベレージ180を達成するには

・8本カウント(1投目に倒す)以上をめざす。

・イージーミスは絶対しない

この2つです。

練習で行なった事は

・10枚(2番スパット)をクロスに投げる

・15枚(3番スパット)を真っ直ぐ

・20枚(4番スパット)から1-3ポケットに投げる

この3つのラインの練習と10番ピンスペアの練習

その当時の私の球質はほぼストレートボール

スピードがあり、コントロールは良かったと思います。

ボールはダンロップのマッターホルンを使ったような・・・。

(拘らないというか、大雑把な性格なので

いつがテスト日だったかなど、

記念日・記念品の事はを忘れてしまっています。

たんに、忘れっぽい性格かなぁ)

もちろん、ボールは1個だけ。

それが当たり前でした。

ボールの性能は、今のスペアボール並みだったので

スペアボールの必要性は全くありません。

多分、今のスペアボールより、動かなかったかも。

一人で黙々と練習を頑張りました。

それから、テストに向かうのですが、

宅急便もないので、

自分で持って電車で移動です。

福岡県内なら、車で移動できますが、

テストは関西・東京です。

それが当たり前だったので、

苦になりませんでしたが、

今の人たちには無理でしょうね。

車で移動は当たり前だし

宅急便はすでにあるのですから。

2010年12月 7日 (火)

⑨テスト前に誓った事

1年間。

とにかく父との約束もあと1年でした。

自分で決めたことは

<毎日投げること>

これだけです。

9月までは、色々なボウリング場に出かけました。

ベースは筑紫サンパレスボウル

現在、筑紫野市の法務局があるところです。

 児玉プロ(名前はけいいち。字を忘れてしまいました。)所属の

春日ブルーレーン(その後、ストライクになり、今はベスト電器春日店)

 確か、安武プロの弟子と言うことで、紹介してもらいました。

お二人とも亡くなられたのが残念です。

冨岡雪枝プロの博多フォーカス

藤田雅子プロの春日フォーカス

そんな所に出かけていました。

ボウリング代とプロテストの費用を少しは自分で何とかしようと思い、

アルバイトもしました。

友人の紹介でレコードショップに。

夕方6時くらいまでバイトし

ボウリングの練習。

筑紫サンパレスボウルさんのご好意で

1G・・150円にして頂いていました。

最も、他のボウリング場さんも便宜をはかって下さいました。

お客様でいっぱいでもレーンをあけて下さったり

皆様に感謝ですね。

資金の関係で1日大体6ゲームと決め

それこそお正月も、風邪で熱があっても

休みませんでした。

それが、自分との約束でした。

振り返ると、投げる事には

その時が一番熱中していたかもしれません。

2010年12月 3日 (金)

⑧少し進路に迷う

幼稚園の産休補助教員をした後

小さいころから憧れていた放送局に

行けるチャンスができました。

新しくFM放送局ができたのです。

FM福岡です。

(FM放送局が何か、よくわかっていなかった。)

ラジオドラマとDJのオーディションが行われました。

そのオーディションに合格しました。

すると、父が

一度、手に染めたものをちゃんと出来ないうちに

他に手をだすのは、中途半端だなぁ。と

つぶやきました。

父は、私がすることをいつも尊重してくれていました。

その言葉に、考え直して放送局には

断りを入れました。向こうは驚いていました。

この話を中山律子プロにしたところ

「良かったね。行かなくて。行ってたら、30歳で

仕事がなくなっていたわねぇ」

確かにですね。

まぁ、ラジオは顔が関係ないから・・・・・。

こうして、1年間ボウリングに打ち込むことになりました。

2010年10月13日 (水)

⑦福岡に帰って

福岡に帰ると、

近所の方から、産休補助教員をしないか?と

声がかかりました。

何をするのかというと市立の幼稚園の先生が

出産で休む3ヶ月の間

幼稚園の先生の手伝いをする事でした。

面白そうなので、軽~く引き受けてしまいました。

3月から年中さんのクラスをお世話する事に。

ピアノを弾き歌を歌う(ひどいピアノです)wobbly

園庭でいっしょに遊ぶ(自分が楽しみました)shine

登園と下園に付き添いいっしょに歩く。

この頃子どもたちに大流行だったのは

西城秀樹の「止めろといわれても・・・・」note

帰り道でも歌いながら踊りながらなので、

時間がかかってしようがありませんでした。

4月は小学校の入学式に来賓で出席。

小学校と幼稚園は隣同士に建っています。

幼稚園の先生は全部で5人。

年中さんと年小さんの面倒をみなくてはいけないので

役立たずの私と園長先生が出席した。と言うわけです。

しかし、幼稚園から入学する子どもにとって

あの先生だれ?ってなものです。

子どもたちには悪かったですが

面白い経験をさせて頂きました。

その頃の子って、今いくつかなぁ?

何っ。40過ぎてる・・・・。

年取るはずですねぇbearing

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