2010年5月22日 (土)

⑥2度目のプロテスト

今、振り返れば、とても恵まれた環境に

いさせて頂いたのに、

与えられると、当たり前になり、

不平不満をよくも言ったものだと恥ずかしくなります。

wink

昭和47年のオイルショックにより

ボウリング場に急にお客様が来なくなりました。

そうすると、企業は当然のことながら

経費の引き締めにかかります。

まず、30人ほどが働いていたレストランが閉まり、

私たちの寮は家賃が必要となりました。

bleah

ちょうど妹が東京に出てくるということになったので、

どうせなら、と、自由が丘にマンションを借り

寮を出ました。

dashdashdashbuilding

自由が丘の駅から2分。

休日には毎日、街を散策し、良い気分に

浸っていました。

cafe

ニットーボウルの勤務時間も、

他の社員の方々と同じになりました。

練習は原則勤務時間外。

それも6ゲームまで。

pout

ところが、

会社の事情も考えず、

不満を訴え、本社に10人ほどで

入社時の約束と違う。と直談判に行ってしまいました。

勤務時間中、1時間までのトレーニングは

許され、練習ゲームの制限もなくなりました。

一番年下だったせいか、

皆に引きずられて行ったように

受け取られていましたが、

言う事は、相手の気持ちを考えずに

ずけずけ言うタイプでしたから・・・・・。

生意気な嫌な子です。

bearing

この騒動で半分くらいの方が辞め、

少し寂しくなりました。

私も少し挫けそうになりましたが、

大学を棒に振っているのですから、

どうにか、プロのライセンスは取りたい。

その思いでいっぱいでした。

そうそう、私たち研修生の事は

「チャーミィ」 ニットーチャーミィと

名付けられていて、

嫌でしょうがなかったです。

wobbly

1回目のテストは会社命令。

2回目のテストはしぶしぶと。かな。

費用は全て会社に出してもらっています。

6期生のテスト(昭和49年 1974年)は

晴海ボウリングセンターの記憶だけあります。

新聞記者の方に

インタビューして頂きました。

何て言ったのか忘れましたが、

横で聞いていた父から

「随分小難しいことをいうんだなぁ」と

言われたのを覚えています。

すぐ構えてしまう癖があるのです。

福岡から、父が仕事。と言いながら、

4日ともついて来ていたなぁ。と今思い出しました。

2回目のテストは、もしかしたら

受かるかなぁ。くらいになっていましたが、

少し進歩して1次の4日間で終了しました。

happy01

このテストの後、研修生制度が

無くなる事になり、(社員として残ることは可)

会社を退職し、

福岡へ帰ることにしました。

昭和49年の2月末のことです。

2010年5月16日 (日)

⑤天才と凡人の違い

落ちるべくして落ちたプロテストだったので、
別に、落ち込むことはありませんでした。

この頃言われた言葉で、
今、思えば、なるほどと思うことがあります。

八張さんといい、ベース(本牧の米軍基地)の
ボウリング場にいた方が

「220アベレージを目指すんだよ」
無理です。と私。

その頃は、200アップすることも難しい時代です。

  ボールは黒い硬質ゴム
                     (プラスチックのボールさえなかった)
  レーンは遅く
  オイルは揮発性が強い

220アベレージなんて考えられません。
「誰にも負けないよ」
確かにそうです。

私は、なんて馬鹿げたことを言うのか。
としか受け取れませんでした。

その時に、なるほど。と
考えて、他人から馬鹿にされようと
ストライクをどうしたら
続けられるかと言う命題を掲げられていたら・・・。

そこが凡人ですから、
まずスペアを確実に。
としか考えられませんでした。

多分、天才なら違った方法をとったでしょう。
結果、できなかったにしても
違ったスタイルのボウラーだったかもね。

天才は閃くって言いますからね。

今の時代でさえ、
年間220アベレージは
トップです。

つくづく人の話を聞き流してはいけない。なぁと思います。

特に相手が好意で助言してくれている時は

真剣に聞くべきですね。

2010年5月13日 (木)

④プロテスト受験1回目

今日は私のプロテスト受験のお話を少し。

ボウリングをはじめて1年

5期生の資格取得テストを受験することになりました。

会社から、経験を積むことを目的に

何人か投げろ。と言われ

会社内での予選会に通過した訳です。

でも、実力は無く、170アベがせいぜいでした。

テスト初日は

横浜市鶴見の森永製菓が経営していた

エンゼルボウルが会場でした。

当日、受験票を忘れ(忘れ物の多さは若い時からsad

あわてた事を覚えています。

第一次テストは4日間。

1日12ゲーム投げます。

48ゲーム180アベレージが必要

<アベレージはAVGと標記します。AVEではありません>

但し、2日間で175AVGに達しなければ

3日目に進む事はできません。

私の目標は3日目に進む事。

実力以上のスコアは出ましたが

(173AVG)で敢え無く撃沈。

張り詰めた雰囲気だけ学びました。

2010年5月10日 (月)

③興味津々の横浜生活

横浜での生活、

もちろん親元を離れたというのも

ありますが、

見るもの珍しくて、楽しかったです。

1.中華街の近くだったので、華僑の方が多かった。

  ジュニアを担当(一緒に遊んでいただけ)一緒に話していると、

  急に中国語で話し、からかわれた。

 (年も近かったので。いじめじゃないですよ。

 あの頃はいじめなどなかったと思います。)

2.中華街の小さな子がピアスをしていた。

  これはカルチャーショックでした。

3.芸能人がさりげなく来場し、ボウリングをしていた。

4.伊勢佐木町の松屋デパートに「マクドナルド」がオープン。

  お昼に代表が電車に乗って買いに行っていた。

  元町のポンパドールも定番の買出しでした。

5.故須田開代子プロが練習に来ていた。

6.某女子プロが日東興業との年間1千万円の契約を断った。

  昭和47年の話ですよ。大卒初任給が5万円以下と思います。

  (それで、アメリカからスージーさんが来た)

7.関内に夜中まで空いてるスーパーマーケットがあった。

8.高校生までは6時に家へ帰っていたので、

  夜10時まで仕事というのが信じられなかった。

9.横浜の人が、「東京の言葉は、さぁー、さぁー言っていやよね。」

  と言っていた。(違いが解らん。と言うと、横浜はじゃん。だそうで。

私の仕事の一つにスージーさんのレッスンに同行するのと、

近場の試合にボール持ちで一緒に行く事がありました。

どっちも大好きでした。

(スージーさんが車を買ってから、行くことはなくなりました。残念。despair

レッスンで一緒にレーンを回れ。と言われた時、

「英語もわからないし、ボウリングだって素人同然だから

とても人のレッスンなんて、できません」と

上司に逆らってしまいましたが、

「英語とボウリングが一緒に学べるじゃぁないか。」と。

お客さんの言ってる意味がわからん。

スージーさんへの伝え方もわからん。

スージーさんが言ってる事もわからん。でしたが、

スージーさんとボディラングゥエイジで何とか

通じ、その内スージーさんの日本語がうまくなり、

英語を使わなくなりました。

お客さん「ボールがあっちこっちで、点数にならない。」

さぁ、何て伝えよう。

身振り、手振り。

スージーさん「Bowling bowl  sometimes left   sometaimes right?]

これならわかりました。

私「そうそう」

このフレーズはいまだに忘れません。

スージーさんは手の振り、スィングを真っ直ぐにと

「Go straight」

と言いながら、お客さんの腕をとって振らせました。

振り返ってみると、いろんなことが起こってましたね。

次はプロテストの話。

  

2010年5月 9日 (日)

②研修生生活のはじまり

昭和46年(1971年)10月横浜のボウリング場に研修生として

入社しました。

住まいは洋光台。(最初は無料)

小学校の前、出来たばかりのマンション。

3DKに三人の共同生活です。

今、どうなっているのでしょうかsign02

電車は、洋光台まで開通したばかりでした。

冬はビルからの風が強く寒かったなぁ。sad

ボウリング場は建設中で

レーンなどはまだ組まれていませんでした。

11月23日のオープンに備え、

ボウリングの知識

トレーニング

接客の講習(電話の取り方、マイクの仕方、用語などなど)

その時は大変でしたが、

今も役に立っています。

レーンがだんだん出来上がっていく様を

見られたのも貴重です。

ボウリング場は2階から4階までの3フロア、114レーン。

私たちの担当は4階。

会員専用のフロアでした。

従業員は100名以上いたと思います。

みんな若く、ボウリングが好きで、

仲良く、楽しく過ごさせてもらいました。

11月23日のオープン。

華々しいセレモニー。

会社所属のプロゴルファーも来場。

玄関前にたくさんの人が並んでいました。

私たちを指導するプロボウラーは

その当時解説で有名だった 伊東清久氏

若手で活躍はじめていた 大塚秀夫氏

もう一人8期生の篠崎芳夫氏

そしてアメリカのプロボウラー スージーさん。

トレーニングコーチは

六本木でスポーツジムを開いている方。

凄い恵まれ方でした。

勤務ももちろんあって、

早番も遅番も2時から6時までが

トレーニングと投球練習。

その前後がフロントや企画・受付(予約専門)に

分かれて仕事します。

トレーニングはミーティングルームで

ストレッチをし、その後吉浜橋のところから

地蔵坂を登り、フェリス女学院⇒外人墓地(そこで少し休憩)

外人墓地の横を元町に下り、中華街の横の川に沿って

石川町駅の横からボウリング場に帰るコースをランニングです。

sports最初の半年は全員で走っていたのですが、

状況が変わって行き、

各自で走るようになってからは

時々サボっていました。

走らず、散歩になってしまったりwink

でも、投げるのは毎日欠かさず投げていました。

(空いていたら投げられた。土日は投げられなかった)

休みの日などは6時間投げたこともあります。

指は血だらけ。

それが勲章のように皆、自慢してたなぁ。hospital

今、振り返ると、ドリルも投球技術もすべてがみんな素人でしたね。

<わかりにくい文ですみません。昔の状況が伝われば・・・>

<今日はこの辺で。また続きを書かせて頂きます。>

2010年5月 8日 (土)

①何故プロボウラーに

プロボウラーに、何故なったのですか?

どういう方法でプロになったのですか?

時々何気なく聞かれます。

話せば、長~い物語ですので、

「プロボウラーへの道」というカテゴリーを作り

少しずつお話したいと思います。

忘れている事や、

勘違いで覚えている事も

あるかと思いますが、

お許し下さい。

高校生のころ

プロボウラーという職業があること、

実は知りませんでした。

教壇に誰がおいたのか、

野村美恵子(2期生)さんが表紙の本がありました。

でも、芸能誌と思い、

大して興味も無く、読みもせず

見ただけでした。

後で、振り返って考えると、

あれは野村さんだったよね。と言う感覚です。

高校生の私は

東京の大学に行きたくて、

しかし、真剣に勉強をする訳でもない

甘い考えの持ち主でした。

それなのに、六大学かそれと同等のレベルの大学を

進学先に希望していました。

そんな高校3年生。

女子大を希望している友人と二人で

その頃はまだ、新幹線も大阪止まり。

受験のため、夜行列車に乗り東京へ向かいました。

初めての夜行列車、

嬉しくて食堂車に行ってみよう。

二人で通路を歩き、1等車(今のグリーン車)を

興味津々で通っていたら、

そこに中山律子さんと井上和子さん(2期生)がいらっしゃいました。

ボウリングは知りませんでしたが、

さすがにテレビで知っていたので

友だちと思い切ってサインをお願いしました。

この話を中山さんにしたら、

「私、感じ悪くなかった?

その頃、結構疲れ果てて移動してたからねぇ」

大丈夫、やさしかったですよ。

そして、大学。

自分の実力以上のところばかりだったので、

見事不合格。

1年浪人しましたが、すべりどめに受けたところに

やっと受かっただけでした。

妙に意地っぱりの私。

幼馴染が自分より良いとこに受かったので

それが癪でたまらず、

何か気が抜けた状態になり、

進学の為、横浜の親戚の家に厄介になりましたが、

やる気が今一つ出ない日々を過ごしていました。

東横線の電車の中だったと思います。

「あなたをプロボウラーにします」

そんな広告がぶら下っていました。

これ、受けてみよう。

ボウリングをした事がなくてもいい。とあったので

プロボウラー研修生を受験したのです。

ジャンボ尾崎を売り出し中の

日東興業という信頼できる会社と

判断した事もあります。

試験は代々木の青少年スポーツセンター

400人近くの人が応募していました。

基礎体力の試験。

次に大宮ニットーボウルでボウリング。

筆記試験。

などがあり、25人が合格。

どうにか、その中に入れました。

大学はやめ。

横浜ニットーボウル(石川町駅に沿ったところにありました)に

研修生として入社することになりました。

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